ホーム 芸能ニュース・ゴシップ 昭和時代劇スター・近衛十四郎の波乱の生涯と松方弘樹との関係、晩年の知られざるエピソード

昭和時代劇スター・近衛十四郎の波乱の生涯と松方弘樹との関係、晩年の知られざるエピソード

滝川 翔 滝川 翔 • 更新: • 公開: • 読了約 11 分
目次

2026年現在においても、昭和の日本映画黄金期を彩った伝説的な名優たちの記憶は、多くの時代劇ファンの胸に深く刻まれ続けています。その中でも「日本映画史上最も殺陣の上手い役者」「古今東西ナンバー1」と絶賛され、圧倒的な剣捌きで一世を風靡したのが近衛十四郎(このえ じゅうしろう)です。

本記事では、公式ファクトや公的記録をもとに、新潟県長岡市での誕生から戦前・戦後の波乱に満ちた経歴、映画会社を渡り歩いた苦難の時代、長男・松方弘樹をはじめとする家族との深い絆、そして晩年の知られざるエピソードに至るまで、その生涯の全貌を徹底的に紐解きます。

近衛十四郎の出自と俳優への歩み:新潟県長岡市から戦前の苦難の時代まで

近衛十四郎

近衛十四郎は1914年(大正3年)4月10日、新潟県長岡市西新町にて、父・目黒多七、母・ミカの長男として誕生しました。本名は目黒寅彦(出生名は寅一、のち改名)。13歳で父を亡くした後は母の手で育てられ、のちに戦前から戦後にかけて日本の映画界を背負う稀代の剣戟スターとしての道を歩み始めることとなります。

俳優としてのキャリアを本格化させる中、1941年には女優の水川八重子(本名:角西やゑ)と結婚。しかし、時代は太平洋戦争前夜から戦中へと突入し、日本の映画界も大きなうねりに巻き込まれていきました。1942年には戦時映画社の統合により、大都映画社が日活、新興キネマとともに合併され大日本映画製作株式会社(大映)が誕生します。

当時の大映には既に阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門という剣戟四大スターが君臨しており、若手であった近衛に出番は回ってきませんでした。さらにフィルム統制により製作本数が激減し、多くの俳優が仕事にあぶれるという危機的状況に直面します。

映画会社統合の試練と一座の結成、そして戦後の再起

仕事が失われるという過酷な状況下で、近衛十四郎は妻・やゑと共に大都映画の退職金2人分をすべて投じ、自ら一座を結成することを決意します。国内各地を実演興行して回るという、俳優としては異例の苦難の道を選択しました。一座の座員は大都映画から引き連れた俳優に加え、浅草の軽演劇から名うての役者を数名迎え入れ、時には総勢50名近い大所帯となるほどの規模に成長しました。

この過酷な巡業の最中である1942年7月23日には、長男・浩樹(のちの松方弘樹)が誕生しています。生活の保障がない中での劇団経営と育児は、筆舌に尽くしがたい苦労があったと伝えられています。

戦後になると、新東宝から芸能界へカムバックを果たし、『江戸群盗伝』『修羅桜』などに主演。1953年には新東宝系列の芸能事務所「綜芸プロ」に所属しますが、当時の新東宝では端役同様の扱いからの出直しを余儀なくされていました。

松竹への移籍と阪妻亡き後の時代劇を支えた屋台骨

転機が訪れたのは1954年のことでした。当時、大映との契約が切れ、松竹時代劇を長年支え続けていた大看板・阪東妻三郎が急逝するという大きな出来事がありました。松竹のチーフ監督であった大曾根辰夫は近衛の才能に注目し、スカウトの手を差し伸べます。

正式に松竹へ移籍した近衛は、悪役の筆頭や主役と同等の立ち役を務め、阪妻亡き後の松竹時代劇の屋台骨を高田浩吉と共に支える存在へと急成長を遂げました。1957年の『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』では本格的に主演を務め、次代のトップスターとしての地位を確実なものにしようとしていました。

しかし、映画業界の構造変化は容赦なく押し寄せます。近衛を主演スターとして本格的に売り出そうとしていた矢先の1959年、松竹は突如として時代劇映画制作からの撤退を発表。時代の波は再び近衛のキャリアに大きな決断を迫ることになります。

東映移籍と『柳生武芸帳』:日本映画史上最高の殺陣が生まれた背景

同じころ、邦画会社で観客動員数No.1を誇っていた東映は、社長の大川博が「日本映画の収入の半分は東映がいただく」と豪語するほどの勢いを見せていました。一方で、家庭へのテレビの普及に伴い、映画館の動員数は徐々に陰りを見せ始めていました。

1959年、東映は1社による「2系統2本立て配給」を目指し、「第二東映」を発足させます。深刻な役者不足を補うため、近衛は松竹の高田浩吉や東宝の鶴田浩二らと共に東映へと引き抜かれました。1960年の移籍後は、品川隆二、黒川弥太郎らと共に第二東映の看板スターとしてスクリーンを賑わせます。

その後、第二東映が現代劇中心の「ニュー東映」への改称を経て劇場用映画から撤退した後は、東映本社所属として数々の名作に出演。白黒作品が中心ではあったものの、ヒーロー然としないニヒルな浪人役など、かつての阪東妻三郎を彷彿とさせる独特の役柄を得意とし、絶大な人気を獲得していきました。

時期・年代 主な出来事・所属 代表作・実績
1914年 新潟県長岡市で誕生(本名:目黒寅彦) -
1941年 女優の水川八重子と結婚 戦前・戦中の映画界で活動開始
1942年 大映発足と出番の激減、一座を結成して巡業 長男・浩樹(松方弘樹)誕生
1954年 松竹へ移籍 阪東妻三郎急逝後の松竹時代劇を支える
1960年〜 東映へ移籍、『柳生武芸帳』シリーズに主演 『柳生武芸帳』、日本映画史上最高の殺陣で絶賛
1976年〜1977年 事実上の引退状態へ、晩年の事業経営と釣り三昧の生活 京都・亀岡の釣り堀「天国」経営

特筆すべきは、1961年から1963年にかけて公開された『柳生武芸帳』シリーズにおける主役・柳生十兵衛の演技です。剣戟スターとしては決して器用ではないと評されながらも、スクリーンを圧倒する異様な迫力が観客を魅了しました。

また、構えた際の画面映りの美しさや、驚異的に速い剣捌き、刀を振り回した際のダイナミックな殺陣を観客に見せつけるため、近衛は通常よりも刀身の長い特注の刀を愛用しました。これは強靭な手首を持つ近衛自身が発案し、独自に開発したものであり、「日本映画史上最高の殺陣」と称される所以がここにあります。同年には、長男の弘樹も東映で俳優デビューを果たしています。

妻・やゑの死と晩年の知られざるエピソード:京都・亀岡での釣り三昧と最期

テレビのレギュラーシリーズ終了後は単発のゲスト出演などをこなしていましたが、長年の激しい撮影による肉体的な負担や体力の低下は隠せず、1976年には事実上の引退状態となりました。引退後は各種の会社経営者として余生を送り、トルコ風呂(ソープランド)やモーテル、さらには趣味の釣りを活かした釣り堀の経営にも乗り出しました。

近衛の釣り好きは芸能界でも有名で、地方ロケには必ず釣り竿を持参するほどの愛好家であり、日本各地で竿を振るうことが人生の大きな喜びでした。また、息子である松方弘樹や目黒祐樹と同様に、酒豪としても知られていました。

しかし、近衛の晩年を決定づけたのは、最愛の妻であり精神的支柱でもあったやゑ(水川八重子)との死別でした。1976年7月25日、やゑが胃がんのため死去。この時、近衛はすでに糖尿病、肝硬変、高血圧を抱えており、医師からは「あなたの心臓は100までも生きられる心臓やけど、今度倒れたら生命に関わる」と厳しく飲酒を戒められていました。

最愛の伴侶を失い、生きる張り合いを失ってしまった近衛は、それまで医師の指導のもとで節制していた酒を浴びるように飲むようになり、連日のように釣り三昧の日々を送るようになりました。釣りの最中も傍らには常に酒瓶が転がっていたといいます。

京都府亀岡市の5千平方メートルの山林に、長男の松方弘樹と2000万円を共同出資して作った釣り堀「天国」が、彼の人生の終着点となりました。1977年5月20日、その「天国」で松方とヘラブナ釣りを楽しんでいた最中に脳内出血で倒れ、近所の南丹病院へと搬送されました。

一時的に意識を取り戻したものの左半身は麻痺し、収縮期血圧は260を記録するなど、長年の酷使で脆くなっていた血管は次々と破裂し、病状は悪化の一途を辿りました。そして5月22日夜から昏睡状態となり、昭和の銀幕を席巻した伝説の剣戟スターは、静かにその波乱の生涯を閉じました。

【近衛十四郎】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:近衛十四郎の殺陣が「日本映画史上最高」と言われる理由はなんですか?
A1:圧倒的なスピードを誇る剣捌きに加え、画面映えと迫力を追求するために自ら考案・開発した「通常の刀より長い刀身の刀」を自在に操る卓越した技術と、スクリーンを圧倒する異様な気迫を持っていたためです。

Q2:息子である松方弘樹や目黒祐樹との関係はどのようなものでしたか?
A2:長男の松方弘樹は父と同じ東映で俳優デビューを果たし、晩年には京都・亀岡の釣り堀「天国」を共同出資で設立するなど、公私にわたって深い絆で結ばれた親子でした。次男の目黒祐樹も含め、芸能界を代表する名門一家を築きました。

Q3:近衛十四郎が引退状態となり、晩年を過ごした背景には何があったのですか?
A3:度重なるハードな撮影による体力の低下に加え、1976年に心の支えであった妻・やゑ(水川八重子)を胃がんで亡くしたことが大きな契機となりました。その後は酒と釣りに囲まれた生活を送り、1977年に釣り堀で倒れ急逝しました。

近衛十四郎は、戦前から戦後にかけての激動の映画界において、自身の技量と不屈の闘志だけでトップスターの座を掴み取った稀代の俳優でした。映画会社の統廃合や戦後の混乱、そして松竹から東映への移籍といった数々の障壁を乗り越え、『柳生武芸帳』をはじめとする数々の名作で日本映画史に不滅の足跡を残しました。

晩年は最愛の妻の死と自身の健康問題に直面し、波乱に満ちた生涯とは裏腹に、愛する釣りを通じて最期まで自らのスタイルを貫いたその生き様は、今なお多くの昭和映画ファンの心に深く語り継がれています。

同じカテゴリの記事

滝川 翔

スポーツと大会情報を担当。リーグ公式記録と連盟発表のスタッツを照合し、移籍や記録の数値は出典時点を明記します。

おすすめの関連記事