2026年現在も大相撲ファンやメディアの間で深く語り継がれる第52代横綱・北の富士勝昭。現役時代にはスマートなルックスと抜群の技量で一世を風靡し、引退後も日本相撲協会において審判部長や広報部長などの要職を歴任しました。加えて、NHKの大相撲中継における歯に衣着せぬ鋭い「名解説」は、ファンの心を鷲掴みにし、唯一無二の存在感を発揮し続けました。本記事では、北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)に生まれ九重部屋で歩んだ激動の経歴から、数々の伝説的エピソード、そして今なおファンの胸に刻まれる名言の真相まで、信頼性の高い公的記録と実績をもとに解説します。
北の富士勝昭の基本プロフィールと生い立ち
北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき)は、1942年(昭和17年)3月28日に北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)で生まれました。本名は竹澤 勝昭(たけざわ かつあき)。力士としては出羽海部屋に入門し、のちに九重部屋へと移籍しています。現役時代は長身で端正な顔立ちと、粋な相撲スタイルで絶大な人気を誇りました。
得意技は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛けと多彩であり、技術に裏打ちされた取り口で土俵を沸かせました。単なる力任せの相撲ではなく、スピードと技術を融合させた横綱として、昭和40年代の土俵を牽引した歴史的な名力士です。
予想外の大関昇進劇と伝説の伝達式エピソード
1966年7月場所後に大関に昇進した北の富士ですが、その昇進を巡る経緯は非常にユニークなものでした。昇進直前3場所の成績は8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗の合計28勝17敗であり、15日制が定着した1949年5月場所以後では北葉山と並ぶ最低の数字でした。当時、豊山の一人大関という番付上の事情があったとはいえ、昇進基準が現在より甘かった当時であっても「意外な昇進」と言われていました。
それ故に本人も「まさか自分が大関に昇進するなどとは思っていなかった」と語っており、昇進伝達式の朝にはすっかり熟睡していました。部屋の床山から叩き起こされて初めて自身の決定を知ったというエピソードが残されています。出羽海部屋の内部でも誰も予想していなかったため、協会からの使者を迎える紋付や足袋すら用意されていませんでした。結果として、紋付は当時兄弟子であった横綱佐田の山から、足袋は足の大きさが同じだった柏戸から借りて、出羽海部屋での昇進伝達式にようやく間に合わせたという逸話があります。加えて、本来立ち会うべき師匠の8代出羽海夫妻も外出して留守にしており、佐田の山が師匠代理を務めるという異例の伝達式となりました。
北の富士勝昭の主な経歴・年表一覧
北の富士勝昭の力士時代から親方・解説者時代に至るまでの主な経歴をまとめました。
| 時期・時代 | 出来事・役職 | 主な概要・実績 |
|---|---|---|
| 1942年(昭和17年)3月28日 | 誕生 | 北海道旭川市出身(出生は網走郡美幌町)、本名:竹澤勝昭。 |
| 1966年(昭和41年)7月場所後 | 大関昇進 | 直前成績の議論や、足袋・紋付を借りる異例の伝達式を経て大関へ昇進。 |
| 1982年(昭和57年)前後 | 審判部副部長(役員待遇) | 役員として相撲協会の要職を担う。のちに理事昇格後は長らく審判部長を務める。 |
| 1996年(平成8年)9月以降 | 広報部長・巡業部長を兼任 | 広報部長としてネット黎明期の協会広報を担い、巡業部長も兼任して尽力。 |
| 2024年(令和6年)11月12日 | 逝去 | 波乱万丈の生涯を閉じ、長年にわたり愛された大相撲界のレジェンドとして記憶される。 |
審判部長・広報部長としての裏側と知られざる激務
現役引退後は九重親方として多くの後進を育成するかたわら、日本相撲協会の要職を歴任しました。1982年の審判部副部長時代には、知人の暴力団員を横綱千代の富士の結婚式に出席させていた問題で一度委員(無任所)に降格されるという苦難も経験しましたが、のちに審判部副部長へ返り咲き、理事昇格後は長年にわたって審判部長を務めました。
その後は新設された広報部長に就任。しかし、北の富士自身は2016年のインタビューで「広報らしいことは何もやってなかった。フィルムを提供するなどして、儲けることばかり。当時の協会はそういう考えだった。インターネットを扱える人間も全くいなかったしね」と、当時のアナログな組織の裏側を率直に振り返っていました。また、1996年9月に巡業部長だった二子山が申告漏れを指摘されて解任された際には、自身の協会退職まで広報部長と兼任で巡業部長も務めるなど、組織のトラブル対応の矢面に立つ役割も引き受けました。
数々の名言と、白鵬への「子供でも分かる」発言の真相
北の富士勝昭の代名詞といえば、歯に衣着せぬ辛口でありながら愛情に満ちた解説です。その真骨頂が発揮されたのが、2015年5月場所12日目の白鵬に関するコメントでした。
当時、横綱・白鵬は大関・豪栄道の首投げに敗れました。土俵際でもつれ、豪栄道の体も飛んだものの、白鵬の右肘が先に土俵外につくという際どい一番でした。白鵬は取組後に礼をせず、土俵下でぼうぜんと立ち尽くしました。この時、北の富士は中継で「物言いが付いたとしても確認程度。子供でも分かるんじゃないですか」とピシャリとコメントしました。これは、同年1月場所13日目における白鵬と稀勢の里の取組が同体取り直しとなった際、白鵬が場所後に「あれは自分の勝ち。子供が見てもわかる」と審判を批判した発言をそのまま引用し、直前の言動に対する矛盾や反省のない態度を鋭く突いたものであり、多くの相撲ファンの共感を呼びました。
【北の富士勝昭】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:北の富士勝昭の現役時代の最高位は何ですか?
A1:第52代横綱です。突っ張りや左四つ、多彩な投げ技を武器に昭和40年代の土俵を沸かせました。
Q2:大関昇進時の「足袋や紋付を借りた」というエピソードは本当ですか?
A2:はい、本当です。予想外の昇進決定だったため準備がなく、紋付は横綱佐田の山から、足袋は柏戸から借りて伝達式に臨んだという公式記録が残されています。
Q3:解説者としての北の富士勝昭の魅力は何でしたか?
A3:横綱・親方としての深い洞察力に基づきながらも、忖度なしの歯に衣着せぬユーモアあふれる「名解説」で、初心者からコアなファンまで絶大な支持を集めました。
北の富士勝昭は、単なる強豪横綱の枠にとどまらず、審判部長や広報部長としての組織改革の苦闘、そして何よりもテレビ解説を通じて大相撲の面白さを広く伝え続けた偉大な表現者でした。予想外の大関昇進から始まった波乱万丈の人生と、いかなる時も自身の美学を貫いた姿勢は、2026年現在も多くの人々の記憶に鮮烈に刻まれています。その残した数々の名言やエピソードは、これからも日本相撲史の宝として語り継がれていくでしょう。